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タンポポの綿毛が風に乗って種子を運ぶように私たちの思いが​苦しんでいるあなたのもとへとどきますように。


by 関西薬物依存症家族の会

一生懸命だけど、違っていた!

私が家庭を築いたら笑顔のあふれる、子供と父親が愛しあえる家庭を持ちたかった。

それは、自分が生まれ育った経験からくる事であり、そう願っていた。

3人息子の子宝に恵まれ、休日は公園で一緒に遊んだり、キャンプなどのアウトドアにも行き、一緒にお風呂に入ってふざけあい親子の絆も深められたと思う。


長男が小学校に上がり、少年野球をはじめ次男・三男もお兄ちゃんと同じように野球を始めた。

私は野球をやったこともないし、興味がなかったが、一緒に野球を通じて子供と触れ合える時間は幸せだった。

物心ついていたころからいつも笑顔であった次男は、

野球をやっている時も笑顔で、何時も一生懸命だった。

これが、私が描いていた笑顔あふれる幸せな家族の一コマだった。


しかし、次男が中二の時に野球を辞めてから、薬物をはじめ転がり落ちるように、どんどん依存症地獄にはまり込んでいった。

次男が家にいないときには、薬物の痕跡がないか刑事のように探しまくっていた。

痕跡をみつけると、次男に小言を言うことでもなく、妻に報告していた。

そして、いかにも妻に原因があるかのように、自分の苛立ちを攻め立てるように話していた。

いつの間にか、自分の心の中でどんどん次男を見下し、軽蔑し、憎んで行った。

妻との心の距離もどんどん離れて行ったと思う。

そこには、「愛しあえる家庭」を持ちたかった自分の姿は、一欠片も居なかった。


今思えば、薬物依存は本人だけでなく家族も巻き込んで行く病気だという事が良く分かる。


あの時の私は、記憶が断片的で思い出せない。

次男が、薬物に溺れる前に既に私が鬱病になっていたからである。

そんな生活が続くうちに、家庭の中はさらに最悪になり、次男とぶつかり合う。

次男を見下し、軽蔑している私を敏感な依存症者の次男は感じていた。


そして、よく言っていた。

「俺をゴミみたいな目で見るな!」と

また、「お前なんか鬱で、気狂って死ね!」

そして、包丁を持ち出し私に突き出す。

「これで、俺を殺してくれ!殺せや!」

私は、その時にどう対処したかは定かでないが、

次男は、泣いて必死に訴えていた様な記憶はある。


次男に対し憎しみと怒りの感情に支配されている当時の私は、次男の心の声を聴くどころか、どんどん追い立てて行った様な気がする。

今思えば、本当に可哀想なことをしたと心が苦しい。


もっと早く、私が自助グループに繋がっていたら・・・

自分の行動がどれだけ次男を追い込んでいたか・・・

家族がここまで落ちることはなかったのでは・・・


しかし、当時の私は自分なりの真正面から向き合って、

思いっきり一生懸命、間違ったことをしていた。

当時の自分はその事を、全く知る由もない。


辛かった、可愛い息子を憎んだ、自分が鬱だったことを責めた。

そのことがあったからこそ、自分が底をつきして、

自助グループに繋がり、スポンサーシップを行い

今の自分があると感じている。


でも、原因は鬱ではなかった。

自分にも、生き苦しさもあり、

あることに囚われていたことに気づいた。



GENGEN


by familiesofaddicts | 2020-10-22 09:51 | GENGEN | Comments(0)