依存症の娘のために何が出来るのか。
どうすれば彼女の苦痛を取り除けるのか。
彼女に正しい選択をさせるのはどうしたらいいのか。
彼女が家族に迷惑をかけていることをどうしたら分かってくれるのか。
そんなことばかりを考えていました。
その発想は私を彼女の虜にしてしまいました。
依存症という病は家族がどれほど依存症者に変化を切実に望むかに関係なく、本人が良くしたいと思う時によってのみ回復すると学びました。
私が娘の問題を代わって解決し続けたら彼女を助けるどころか、病気の回復の邪魔になっていました。
そんな救済のお面をかぶって、彼女を病気の淵に追い詰めていたのかと思うとゾッとしました。
私が娘に対して行った押しつけは、私が正しいと考えるものでしたが実は不安感や恐怖心に基づいたもの
私が思うような行動を彼女に強いることで不安や恐れを払拭できると思い込んでいました。
依存症に影響を受けていた私にも問題がありました。
娘の回復に直接手を貸すことよりも、不健康な考えや行動をせずにおられない自分に向き合うことが必要でした。
娘には私のお説教や文句や保護の手や約束は必要ありません。
今では私が正しいと思うことに彼女がほど遠く感じても、それでいいのだと思っています。
正しくないといけないという観念は、時に生き辛さを生むのではないかと思いますね。
娘の歩みが明らかなものでなくても、私の知らない彼女の成長が必ずあることを信じています。
固定観念にこだわると思うようにいかないことを受け入れにくいし、型にはめようとするとお互いに苦しいですもの
「自分も生きて、他人も生かせ」このモットーに励まされます。
Luna